1.就業規則の開示
どのような類型の事件であったとしても、労働事件は労働契約の内容を確認するところから始まります。
労働契約の内容は、労働条件通知書や雇用契約書、そして、就業規則を確認することによって把握します。就業規則には周知義務があり(労働基準法106条)、周知された就業規則は基本的には労働契約の内容になるからです(労働契約法7条)。
就業規則は従業員一般に広く周知されている文書であり、不正競争防止法上の営業秘密に該当する類の情報ではありません。しかし、社外への持ち出しは制限されているのが通例です。そのため、労働者側で労働事件を受任した弁護士は、使用者側に対し、先ず、就業規則の開示を求めて行きます。
これに対し、大抵の使用者(側の弁護士)は開示に応じてくれます。開示請求権や開示義務があるわけではありませんが、断ったところで就業規則の適用を主張する限り、訴訟提起されれば出さざるを得ない文書だからです。
言い換えれば、事前交渉において就業規則を提供しないことは、労働者側に対する嫌がらせにしかなりません。
それでは、就業規則の提供しないといった不適切な対応がなされた場合、これを何等かの不利益な効果と結び付けて行くことはできないのでしょうか? 近時公刊された判例集に、この問題を考えるにあたり参考になる裁判例が掲載されていました。東京高判令7.7.3労働判例1354-141、東京地判令6.12.10労働判例1354-148 せおな税理士事務所事件です。
2.せおな税理士事務所事件
本件で被告(控訴人)になったのは、税理士事業を営む個人事業主の方です。
原告(被控訴人)になったのは、平成29年9月29日付けで被告との間で、試用期間契約書を作成し、期間の定めのない労働契約に基づき、税理士補助業務等に従事していた方です。
原告の方は、被告を退職した後、時間外勤務手当等(いわゆる残業代)の支払を求める訴えを提起しました。原審が原告の請求を概ね認めたのに対し、被告側が控訴したのが本件です。
本件は「職務手当」という名称の手当が固定残業代としての有効要件を具備しているのかが争点の一つになり、その関係で就業規則の周知性が問題になりました。
裁判所は、次のとおり述べて、就業規則の周知性を否定しました。
(一審地方裁判所の判断)
「前提事実・・・及び証拠・・・によれば、本件就業規則には、職務手当は時間外勤務手当の代わりとして支給する旨の定め(28条)があることが認められるものの、本件契約書には、職務手当についての記載がなく、労働条件について本件就業規則による旨の記載もないこと、被告が原告の面接時に作成したメモ・・・の記載等によるも、原告に対して職務手当について説明し又は就業規則を示したこともうかがわれないこと、職務手当は、その名称からみても、直ちに時間外勤務の対価であることがうかがわれるものではなく、かえって、通常の労働時間も含めた職務遂行全般の対価とみることも可能であること等に照らせば、原告と被告との間で、職務手当を時間外労働の対価として支払う旨の合意があったということはできない。」
「被告は、本件就業規則については、そのデータが被告のサーバ内の共有フォルダの総務フォルダに保存されており、原告はいつでもこれを見ることができたから周知性が認められ、労働契約法7条により、本件就業規則の内容が本件労働契約の内容となるため、本件就業規則28条の定めによって職務手当は時間外労働の対価ということができる旨主張し、被告作成の陳述書及び被告本人尋問の結果中には、これに沿う部分が存在する。」
「しかしながら、原告作成の陳述書中には、原告の勤務していた当時、被告の共有フォルダ内において、本件就業規則のデータはなかったとする部分があることに加え、前提事実・・・及び証拠・・・によれば、本件契約書には就業規則について言及した部分はなく、かえって、その末尾に『以上のほか、労働基準法等の関連法規による。』旨の記載があるなど、本件就業規則の存在が念頭に置かれていないことがうかがわれること、原告から委任を受けた弁護士が、被告に対し、就業規則等の開示を2回にわたって書面により求めたにもかかわらず、被告はこれを拒絶していること、被告には、三六協定を締結しないまま、原告に労基法32条の制限を超える時間の労働をさせるなど労務管理に重大な不備がみられ、被告は労働関係法令についての理解が不十分であったといわざるを得ないこと等の事情に照らせば、被告が本件就業規則を周知していたとは認められず、他にこれを認めるに足りる的確な証拠はない。」
「以上によれば、本件就業規則28条が本件契約の内容となるとはいえず、職務手当が時間外労働に対する対価として支払われるものと認めることはできない。」
「以上説示したところによれば、職務手当は、通常の労働時間の賃金として、その全額が基礎賃金に算入されるというべきである。」
(二審高等裁判所の判断)
「当裁判所も、原審と同様、被控訴人の請求は原判決において認容された限度で理由があると判断する。その理由は、当審における控訴人の補充的主張に対する判断を下記のとおり加えるほか、原判決『事実及び理由』の第3のとおりであるから、これを引用する。」
(中略)
・職務手当について
「本件就業規則においては、19時間分の時間外手当の代わりとして3万円、22時間分の時間外手当の代わりとして3万5000円、25時間分の時間外勤務手当の代わりとして4万円の職務手当を支給する旨定めがある・・・。」
「しかし、本件就業規則は下記・・・のとおり周知性を欠き効力を有しないことから、控訴人と被控訴人との間において職務手当を時間外労働の代わりとして支払う旨の合意があったと認めることはできない。したがって、被控訴人が支給されていた職務手当は基礎賃金に含まれる。」
・就業規則の周知性について
「本件契約書において就業規則に関する言及がなかったことや、被控訴人訴訟代理人は2度にわたり控訴人に対し就業規則等の開示を求めたが控訴人はこれを拒絶したことなどに照らせば、控訴人が労働者に対し本件就業規則を周知させていたとは認められない。」
「そうすると、本件就業規則は、『労働条件が定められている就業規則を労働者に周知させていた場合』(労働契約法7条本文)には当たらず、控訴人と被控訴人との間の労働契約の内容・労働条件を定める効力を有するということはできない。」
2.拒絶イコール周知性の否定とまでは言えないが・・・
裁判所は、就業規則の開示の拒絶から直ちに周知性が否定されるとまで述べているわけではありません。それでも、就業規則の開示の拒絶を周知性の否定と結び付けている点は注目に値します。
就業規則には労働者に有利な内容が書かれていることもあるため一概には言えないのですが、傾向として言うと、就業規則の適用がなくて困るのは使用者側であることの方が多いです。就業規則は使用者が作成するため、当然といえば当然かも知れません。
裁判所の判断は、事前交渉段階で就業規則の開示を拒絶するという挙に及んできた使用者に対抗して行くにあたり、実務上参考になります。
