1.相殺合意と軽過失による交通事故
社用車を運転していて事故を起こすと、会社から損害賠償を請求されることがあります。ここで賠償資力がない時によく使われるのが、賃金から損害賠償金を控除すると言うスキームです。
労働基準法24条1項本文は、
「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。」
と規定しています。しかし、この条文は相殺合意(合意相殺)まで禁止しているわけではありません。最二小判平2.11.26労働判例584-6 日新製鋼事件は、
「労働者がその自由な意思に基づき右相殺に同意した場合においては、右同意が労働者の自由な意思に基づいてされたものであると認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するときは、右同意を得てした相殺は右規定に違反するものとはいえないものと解するのが相当である」
と判示しています。
日新製鋼事件で最高裁が示した法理は、「自由な意思」を要求しています。
しかし、在職中の労働者が使用者に対して事故の責任を負いたくない、損害賠償金を控除しないで欲しいと言うことは、必ずしも容易ではありません。使用者の側としても、賃金から控除する方法によれば、取りはぐれることがないため、相殺合意によるスキームはしばしば濫用的に用いられています。
濫用的な相殺合意の典型は、労働者に軽過失があるにすぎない場合です。人間である以上、必ずミスは犯します。横領などの積極的な加害行為や故意に近似するような重大な過失は別として、通常の過失(軽過失)程度のことは、事業に内在するリスクとして使用者が負うのが公平だといえます。こうした考え方は、別段、珍しいというわけでもありません。例えば、最二小判令2.2.28 労働判例ジャーナル97-1 福山通運事件の菅野博之裁判官、草野畊一裁判官の補足意見は、
「使用者である被上告人は、貨物自動車運送業者として規模の大きな上場会社であるのに対し、被用者である上告人は、本件事故当時、トラック運転手として被上告人の業務に継続的かつ専属的に従事していた自然人であるという点である。使用者と被用者がこのような属性と関係性を有している場合においては、通常の業務において生じた事故による損害について被用者が負担すべき部分は、僅少なものとなることが多く、これを零とすべき場合もあり得ると考える。」
と通常の業務プロセスにおいて生じた事故について労働者が免責する余地を認めています。
労働者が免責される余地なる事故において、「自由な意思」による合意があるとして損害賠償金を賃金から控除し続けることの相当性には強い疑義があります。近時公刊された判例集に、軽過失による事故の弁償金を賃金から控除することを否定した裁判例が掲載されていました。一昨日、昨日とご紹介している、札幌地判令8.3.25労働判例ジャーナル172-26 北海総合物流事件です。
2.北海総合物流事件
本件で被告になったのは、牛乳の集荷事業、一般貨物の輸送事業等を営む株式会社です。
原告になったのは、
遅くとも平成28年4月1日までに被告に雇用され、1年ごとの有期契約を更新し、令和5年11月16日に退職した方(原告a)、
遅くとも平成29年12月1日までに被告に雇用され、1年ごとの有期労働契約を更新し、令和5年7月31日に退職した方(原告b)
の二名です。いずれの方もd営業所に配属され、トレーラー運転手として牛乳を輸送する業務に従事していました。
本件は原告らが未払割増賃金(いわゆる残業代)や安全配慮義務違反を理由とする損害賠償、違法に控除された未払賃金等の支払を求めて訴えを提起した事件です。
ここで問題にされた未払賃金の中に、事故弁償金の控除がありました。これは工場内でトレーラーをステージに接触させるという原告aの自損事故によって使用者に生じた損害を賃金から控除したものです。被告は支出した20万円のうち10万円を2万5000円ずつ4回に渡り原告aの賃金から控除しました。
裁判所は、次のとおり述べて、この賃金控除の効力を否定しました。
(裁判所の判断)
「被告が、原告aに対し、令和5年5月分から同年8月分まで、事故弁償金の費目で毎月2万5000円を控除し、合計10万円の賃金を支払わなかったことについては、当事者間に争いがない。」
「このような賃金控除が賃金全額払の原則に違反しないというためには、それが労働者の自由な意思に基づくものであると認めるに足る合理的な理由が客観的に存在していたことが必要である。」
「そこで検討するに、証拠によれば、原告aが令和5年3月18日に工場内でトレーラーをステージに接触させる単独事故を発生させ・・・、被告との間で同年5月10日に被告が負担した20万円のうち10万円を原告が4回払で弁済する旨の弁済方法申出書を作成したこと・・・が認められるが、当該事故について原告aに故意又は重過失があったと認めるに足りる証拠はなく、軽過失にとどまるものと認められる。」
「このように業務上の軽過失によって発生した損害について、労働者に責任を負担させることの合理性は慎重に検討すべきであることも踏まえると、本件において、事故弁償金の控除が原告aの自由な意思に基づいて行われたものとは認め難く、賃金全額払の原則に違反するというべきである。」
3.軽過失による損害の責任を労働者に負わせることの合理性は慎重に検討すべき
以上のとおり、裁判所は、軽過失による事故の損害賠償金と賃金から控除する合意の効力を否定しました。発想のベースにあるのは、やはり、軽過失による損害を労働者に負担させることそれ自体の合理性であるように思われます。
裁判所の判断は、損害賠償金の賃金からの天引きや、損害賠償義務の存否を争う事件に取り組むにあたり、実務上参考になります。
