1.固定残業代の導入合意
固定残業代とは、
「時間外労働、休日および深夜労働に対する各割増賃金(残業代)として支払われる、あらかじめ定められた一定の金額」
をいいます(白石哲編著『労働関係訴訟の実務』〔商事法務、第2版、平30〕115頁参照)。
固定残業代には、基本給に組み込まれているタイプと手当として括りだされているタイプとがありますが、いずれにせよ一定の要件(判別性、対価性)のもとで残業代の支払としての有効性が認められています。
しかし、固定残業代は使用者にとって損でしかない仕組みです。残業時間が予定された時間に満たなくても固定残業代部分の賃金を支払わなければならない反面、実労働をもとに計算した残業代が固定残業代を上回っている場合には、その差額を労働者に支払わなければならないからです。労働者の労働時間を把握する責務から解放されるわけでもなく、固定残業代の導入には、何のメリットもありません。
それでは、何のために導入されるのかというと、見せかけの賃金を高くしたり、定額働かせ放題とするような労務管理を実現したりするなど、公正さに疑問を感じさせるような意図のもとで使われることが少なくありません。
こうした不可解な動機を隠すため、固定残業代の導入にあたっては、しばしば不正確な説明が用いられます。どう考えても労働者の不利益になるのに「不利益変更にはならない」「支給額が減ることはない」といったようにです。
近時公刊された判例集に、こうした不正確な説明のもとで行われた固定残業代の導入に係る合意の効力を否定した裁判例が掲載されていました。札幌地判令8.3.25労働判例ジャーナル172-26 北海総合物流事件です。
2.北海総合物流事件
本件で被告になったのは、牛乳の集荷事業、一般貨物の輸送事業等を営む株式会社です。
原告になったのは、
遅くとも平成28年4月1日までに被告に雇用され、1年ごとの有期契約を更新し、令和5年11月16日に退職した方(原告a)、
遅くとも平成29年12月1日までに被告に雇用され、1年ごとの有期労働契約を更新し、令和5年7月31日に退職した方(原告b)
の二名です。いずれの方もd営業所に配属され、トレーラー運転手として牛乳を輸送する業務に従事していました。
本件は原告らが未払割増賃金(いわゆる残業代)や安全配慮義務違反を理由とする損害賠償、違法に控除された未払賃金等の支払を求めて訴えを提起した事件です。
未払割増賃金との関係では、固定残業代の導入合意による労働条件の不利益変更の可否が問題になりました。
原告らが被告と元々交わしていた契約書には
「基本給(日給)1日6,092円(4時間半以上勤務)とし4時間半未満のときは3,144円とする。30分未満は支給しない。歩合は売上の15%、旅費日当は1月30,000円とし、所定日数未達のときは按分支給とする。」
と書かれていました。
しかし、原告らの令和元年7月1日付け労働条件通知書には、
「1 基準内賃金
一 基本給 日給月給
勤務時間4時間30分以上 6,092円
勤務時間4時間30分未満 3,144円(30分未満は不支給)
二 評価給 売上(荷主からの収受運賃から高速代、フェリー代を控除した額)に3%を乗じた額
2 基準外賃金
一 時間外手当A(歩合) 売上に12%を乗じた額(荷主からの収受運賃から高速代、フェリー代を控除した額)
二 時間外手当B(旅費日当) 1日1,500円、月上限30,000円
三 所定時間外、休日又は深夜労働に対して支払われる割増賃金率」
とうい記載がなされていました。
要するに、歩合給15%のうち12パーセントと旅費日当3万円が時間外手当に振り替えられたことになります。
どのように理解しても、これは原告に不利益な変更ですが、被告の総務部からは、賃金改定の際、
「支給額が増える事はありますが、減る事はありません」
などと書かれた説明文書が配布されていました。
このような事実関係のもと、裁判所は、次のとおり述べて、固定残業代の合意の効力を否定しました。
(裁判所の判断)
「認定事実・・・のとおり、遅くとも平成31年4月以降の就業規則及び賃金規程では固定残業代が導入されているところ、認定事実イのとおり、原告らは少なくとも令和3年4月以降の労働条件通知書兼契約書には署名押印しているから、労働契約法9条により労働条件が変更されたといえるかが問題となる。」
「労働契約法9条は「使用者は、労働者と合意することなく、就業規則を変更することにより、労働者の不利益に労働契約の内容である労働条件を変更することはできない。」と規定しており、これを反対解釈すると、就業規則の変更による労働条件の不利益変更に労働者が合意すれば、労働条件の変更は可能ということになる。」
「もっとも、使用者が提示した労働条件の変更が賃金や退職金に関するものである場合には、当該変更を受け入れる旨の労働者の行為があるとしても、労働者が使用者に使用されてその指揮命令に服すべき立場に置かれており、自らの意思決定の基礎となる情報を収集する能力にも限界があることに照らせば、当該行為をもって直ちに労働者の同意があったものとみるのは相当でなく、当該変更に対する労働者の同意の有無についての判断は慎重にされるべきである。そうすると、就業規則に定められた賃金や退職金に関する労働条件の変更に対する労働者の同意の有無については、当該変更を受入れる旨の労働者の行為の有無だけでなく、当該変更により労働者にもたらされる不利益の内容及び程度、労働者により当該行為がされるに至った経緯及びその態様、当該行為に先立つ労働者への情報提供又は説明の内容等に照らして、当該行為が労働者の自由な意思に基づいてされたものと認めるに足りる合理的な理由が客観的に存在するか否かという観点からも、判断されるべきものと解するのが相当である(最高裁判所平成28年2月19日・民集70巻2号123頁参照)。」
「本件についてみると、前記・・・のとおり、不利益変更の内容は固定残業代を導入して通常の賃金を大幅に減額するというものであり、労働者への不利益はあまりにも大きいことに加え、不利益変更の内容や理由について原告らに具体的に説明をした形跡がなく、かえって、認定事実・・・のとおり、『不利益変更にならない内容で改正するもの』、『支給額が増える事はありますが、減る事はありません。』という誤った説明をしていたことが認められるから、原告らの自由な意思に基づく同意があったとは認められない。」
3.不正確な説明のもとでの合意が否定された
固定残業代の創設にあたり、既存の基本給や手当が固定残業代に振り替えられることは多く見られます。こうした固定残業代の創設は、普通に説明したのでは、同意を得ることが困難です。労働者にとって不利益にしかならないからです。
そのため、欺瞞的な説明が行われることが少なくありません。
本件はこうした欺瞞的な説明を「誤った説明」であるとして、自由な意思の法理を使い、固定残業代の合意の効力を否定しました。
裁判所の判断は、固定残業代の導入合意の効力を争ってゆくにあたり、実務上参考になります。
