1.賃金全額払の原則/相殺禁止
労働基準法24条1項は、
「賃金は、通貨で、直接労働者に、その全額を支払わなければならない。ただし、法令若しくは労働協約に別段の定めがある場合又は厚生労働省令で定める賃金について確実な支払の方法で厚生労働省令で定めるものによる場合においては、通貨以外のもので支払い、また、法令に別段の定めがある場合又は当該事業場の労働者の過半数で組織する労働組合があるときはその労働組合、労働者の過半数で組織する労働組合がないときは労働者の過半数を代表する者との書面による協定がある場合においては、賃金の一部を控除して支払うことができる。」
と規定しています。
「その全額を支払わなければならない」とあるのは、いわゆる賃金全額払の原則を定めたものです。全額を支払わなければならないというのは、一方的に何某かの費用を差し引くことだけではなく、労働者に対する債権を退職金支払債務と相殺することを禁止する趣旨だと理解されています。
ただ、後段を見れば分かるとおり、賃金全額払の原則には幾つかの例外があります。
この例外について、水町勇一郎『詳解 労働法』〔東京大学出版会、第3版、令5〕663頁は、
「法令上の定め・・・としては,給与所得税の源泉徴収(所得税法183条),社会保険料・労働保険料の控除(健康保険法167条,厚生年金保険法84条,労働保険料徴収法32条など),財産形成貯蓄金の控除(勤労者財産形成促進法6条1項)などがある。労使協定による例外・・・は,典型的には,組合費のチェック・オフ・・・を行う場合に用いられている」
と概説しています。
このように税金や社会保険料は賃金から差し引いても良い費目の典型とされているのですが、近時公刊された判例集に、退職金から長期欠勤中に立替えられていた税金や社会保険料を控除することが許されないと判示した裁判例が掲載されていました。労働判例ジャーナル169-50 三菱自動車ファイナンス事件です。
2.三菱自動車ファイナンス事件
本件で被告になったのは、
自動車のファイナンスを業とする株式会社(被告会社)
被告会社の代表取締役(被告b)
被告会社の契約管理部長(被告c)
被告会社の契約管理部相談グループのマネージャー(被告d)
の1法人3名です。
原告になったのは、被告会社のマネージャー職にあった方です。
被告に対して未払退職金や社員就業規則に基づく休業補償給付等の支払を求めて訴えを提起したのが本件です。
未払退職金との関係では計算方法のほか、原告が長期に渡って欠勤していた期間に被告会社によって立替えられていた税金や社会保険料等の控除の可否が争われました。
被告会社は、
「社員退職金規則上、被告会社が支給する退職金額は、計算上の退職金額から税金や立替金等を控除した金額とされており、これを控除することは全額払いの原則に反するものではない。そして、本件において控除されるのは、社会保険料等の原告が負担すべき義務の内容・金額が明確に定まっているものであり、そのほとんどが法令に別段の定めがある場合(労働基準法24条1項ただし書)に当たるから、その控除は実質的にも労働基準法に反するものではない。」
と述べ、控除は可能だと主張しました。
しかし、裁判所は、次のとおり述べて、控除を否定しました。
(裁判所の判断)
「被告会社は、社員退職金規則上、被告会社が支給する退職金額は計算上の退職金額から税金や立替金等を控除した金額とされており、前記算定式による金額に定年退職加算金を加えた金額から立替金合計167万5463円を控除した金額が原告の退職金額であると主張する。」
「しかし、社員退職金規則上、4条及び5条において退職金の算定式が明記された上で、10条において『前各号による退職金の計算において100円未満の端数を生じたときは、最終計算において100円に切り上げる。』と定められ、11条において所得税等や貸付金・立替金の控除ができる旨が定められている・・・。これらの規定からすれば、立替金等の控除は、退職金額の計算過程に組み込まれているわけではなく、退職金額は4条から10条までの各規定により定まるとみるのが合理的である。また、前記の規定は、立替金等に係る債権が控除によって消滅することを前提としていると考えられるから、その趣旨は被告会社が退職者に対して有する債権と退職金債務を対当額で相殺するものと解するほかない。そうすると、社員退職金規則の規定を根拠として退職金から立替金等を控除することは、賃金の全額払いの原則(労働基準法24条)に反し許されないと解される。」
「また、被告会社は、本件において控除されるのは、社会保険料等の原告が負担すべき義務の内容・金額が明確に定まっているものであり、そのほとんどが法令に別段の定めがある場合に当たるから、その控除は実質的にも労働基準法に反するものではないとも主張する。しかし、控除の時点で退職者の債務の内容・金額が明確に定まっていれば直ちに控除・相殺が許されるものではなく、また、過去の賃金に対応する社会保険料等を退職金から控除することについて法令に別段の定めがあるともいえない。」
「したがって、被告会社の前記主張は採用することができない。」
3.活用する場面は少ないだろうが・・・
相殺を禁止したところで債務を免れるわけではありません。得られた賃金(退職金)の中から立替金債務を支払わなければならないため、相殺禁止といったところで、そのルールを活用すべき場面は、それほど多くはありません。
とはいえ、退職金から債務を差し引くことの可否が争われる事案は、決してないわけではなく(特に、会社に何等かの損害を与えて解雇される場合など)、裁判所の判断は、実務上参考になります。
