1.労働条件通知書
労働契約法4条2項は、
「労働者及び使用者は、労働契約の内容・・・について、できる限り書面により確認するものとする」
と規定しています。この規定からも分かるとおり、雇用契約書(労働契約書)の作成は努力義務にすぎず、法的義務ではありません。
それでは、実務上、何が労働契約の内容を確定するための基本書証と理解されているかというと、労働条件通知書(労働条件明示書面)の存在を挙げることができます。
労働条件通知書は、
「使用者は、労働契約の締結に際し、労働者に対して賃金、労働時間その他の労働条件を明示しなければならない。この場合において、賃金及び労働時間に関する事項その他の厚生労働省令で定める事項については、厚生労働省令で定める方法により明示しなければならない」
と規定する労働基準法15条1項所定の書面をいいます。労働基準法15条1項違反は刑事罰の対象となっていることもあり(労働基準法120条1号)、労働条件通知書が作成されていない事案は(全くないわけではないにせよ)あまりありません。
このように労働契約の内容を認定するために重要な役割を果たしている労働条件通知書ですが、近時公刊された判例集に、労働条件通知書に記載がありながら、固定残業代の合意の成立が否定された裁判例が掲載されていました。昨日もご紹介した、大阪地判令7.1.17労働判例ジャーナル159-52 山本自動車ロードサービスほか1社事件です。
2.山本自動車ロードサービスほか1社事件
本件で被告になったのは、
ロードサービス事業を営む株式会社(被告ロードサービス、被告山本自動車)と
ロードサービス事業を営む個人事業主(被告P)
です。
原告になったのは、q1営業所において、主にロードサービス業務(レッカー車又はトラックを運転し、路上で交通事故に遭った又は故障した自動車等を修理工場等まで運搬・保管する事業)に従事していた方4名です(原告P1~P4)。自宅待機命令の後、売上金の隠匿・横領等を理由として普通解雇されたことを受け、自宅待機期間中の賃金や、未払割増賃金、不当解雇を理由とする慰謝料等の支払を求める訴えを提起したのが本件です。
本件には多数の争点がありますが、本日、焦点を当てたいのは、残業代請求との関係です。
原告P2、原告P3の労働条件通知書には、下記のとおり固定残業代の定めがありました。
(原告P2の労働条件通知書の記載事項)
基本賃金 20万円
職務手当 5万円
通勤手当 2万5000円
時間外みなし残業代 10万円
(普通残業50時間・深夜残業20時間分として)
(原告P3の労働条件通知書の記載事項)
基本賃金 20万円
職務手当 5万円
通勤手当 2万5000円
時間外みなし残業代 7万5000円
(普通残業50時間・深夜残業20時間分として)
しかし、裁判所は、次のとおり述べて、固定残業代の合意の成立を否定しました。
(裁判所の判断)
「被告らは、本件各労務条件通知書を根拠として原告P2及び原告P3の基本給に時間外手当が含まれていた旨を主張する。」
「しかしながら、本件各労務条件通知書に記載された基本賃金及び諸手当の額は、本件請求期間における原告P2及び原告P3の賃金額と大幅に異なる上、本件各労務条件通知書が作成されたのは本件請求期間の始期から起算して約4年も前のことであることからすると、本件各労務条件通知書をもって直ちに本件請求期間中の原告P2及び原告P3の基本給に時間外手当が含まれていたことやその金額が直接的に裏付けられるものではなく、本件各労務条件通知書のみをもって原告P2及び原告P3と被告らとの間で本件請求期間中の基本給に時間外手当を含めて支給する旨の合意が成立したと認めるには足りない。」
「そして、被告らは、原告P2及び原告P3に対して時間外手当に関する説明をしたかやその際の説明内容など、本件各労務条件通知書以外に上記合意が成立したことを基礎づける事情を何ら主張立証しておらず、かえって、原告P2及び原告P3は、被告らから基本給に時間外手当が含まれる旨の説明を受けたことはない旨を供述していること(原告P2・2頁、原告P3・1頁)からすると、原告P2及び原告P3と被告らとの間で上記合意が成立したとは認められず、ほかにこれを認めるに足りる証拠はない。」
「したがって、被告らの上記主張は採用できない。」
3.偽造主張との関係での判断ではあるが・・・
本件で原告らが展開した主張は次のとおりです。
(原告の主張)
「原告P2及び原告P3は、本件各労務条件通知書に署名押印した記憶はなく、被告らから本件労務条件通知書を見せられたり内容を説明されたりしておらず、被告らは、本件各労務条件通知書の作成経緯について何ら具体的な主張立証をしていないから、原告P2及び原告P3と被告らとの間で固定残業代の合意が成立したとはいえない。」
「本件各労務条件通知書の原告P2及び原告P3名下の印影は、原告P2及び原告P3の印章によって顕出されたものとはいえず、仮に本件各労務条件通知書の原告P2及び原告P3名下の印影が原告P2及び原告P3の印章によって顕出されたものであるとしても、以下に述べる事情からは、原告P2及び原告P3の意思に基づいて顕出されたものとは推定されない。」
「(ア)平成26年12月当時、原告P2及び原告P3の印章は、原告P1の机の左右あるキャビネットのうちの施錠されていない右側キャビネットに保管されており、誰でも使用できる状態にあった。」
「(イ)原告P2及び原告P3は、本件各労務条件通知書を見せられたり内容を説明されたりしたことはなく、別人による押印としか考えられない。」
「(ウ)本件各労務条件通知書の署名の筆跡は、原告P2及び原告P3のものとは異なっており、署名と同時にされたであろう押印も、原告P2及び原告P3によるものではない。」
「(エ)原告P2及び原告P3は他人に代理を依頼しておらず、代理による押印でもない。」
「本件各労務条件通知書の署名は、原告P2及び原告P3の筆跡とは全く異なる。また、本件各労務条件通知書に顕出された原告P2及び原告P3名下の各印影は、そもそも原告P2及び原告P3の印章によるものではない可能性がある上、原告P2及び原告P3の意思に基づくものではない。」
これは労働条件通知書が偽造されたと言っているに等しい主張です。
こうした疑義が具体的に提示された状況のもとの判断ではあるものの、裁判所は、
「時間外手当に関する説明をしたかやその際の説明内容など、本件各労務条件通知書以外に上記合意が成立したことを基礎づける事情を何ら主張立証」
できていないとして、固定残業代の合意の成立を否定しました。
労働条件通知書に明記されていながら、使用者側で合意の経緯や状況を十分に説明できないことを理由に固定残業代に係る合意の成立を否定した事案として、本裁判例は実務上参考になります。
